vol.12 「ウッドザビエル的文明論 03」--- 多様性こそが自然の姿です。
豊かであればあるほど、多様化する。
これが私の持論です。

例えば、貧しい時代には「食べていく」ということが
もっとも重要なテーマでした。
その時代、エネルギーの大半は「食料の調達」に費やされることになります。

仮に、天才的な芸術の才能を持った子供が、
江戸時代の百姓の家に生まれたなら、彼の能力が生かされることはないでしょう。
逆に、「そんなことに時間を使うのなら、山に入って薪でも拾って来い」と怒られるはず。

これまでの長い時代、多くの才能がそうやって滅んできたことを思うと
悲しいですね。

人の優劣をひとつの物差しでしか測ることにできない時代は不幸です。

そしてまた、人の優劣をひとつの物差しで測ろうとする人も不幸です。

今の日本。さてどうでしょう。とりあえず豊かです。
豊かということは自由ということです。いろんな価値観がある。
あっていい。右に行こうが左に行こうが、自由です。

なんて豊かな環境でしょうか。
テレビで見るイラクの様子やアフリカの飢餓、北朝鮮の映像をみるにつけ、
そんな思いを新たにするわけです。

今の日本は、豊かですばらしい!というころで
ご納得いただけましたでしょうか?

でも、なにか引っかかる。
本当にそうなのか。そんな気もするし、違う気もする。

それはきっと、大平原の真ん中にたった一人で立たされて、
「好きにしなさい」といわれたような不安な気持ちなのでしょう。

どんな高価な道具でも、使い方がわからなければ意味がない。

逆に危ない。 チェーンソーをウィンウィンいわせながら「とめてくれー」と叫んで
人が走ってきたら怖いです。ほとんどの人は逃げます。

今の時代、「自由」という豊かさの使い方を知らない人たちが、
右往左往しているのが実態ではないでしょうか。

さて、豊かな日本に欠けているもの、それはなんでしょう。

豊かな森。

聞き飽きるくらい聞いたことばでしょうが、その豊かさとは何でしょう?

それは多様性にこそあります。

そこに茂っている木の種類、鳥の数、草花の色、昆虫、動物・・・。
その種類の多さこそが豊かさです。

今、日本の森林が荒れている、ということが問題になっています。
原因は、植林地の放置です。

原生林というものは、長い年月をかけて作られたしっかりした秩序の中で、
植物・動物・昆虫などがそれぞれの分をわきまえながら役割を果たすことによって成り立ってきました。
そこには絶妙な自然のバランスがあるわけです。

そのバランスを壊すのはいつも人間。
ぶなの原生林を切り開き、そこに杉やヒノキなどの針葉樹を植えていきました。

木が茂ってきて、森を覆います。そうすると、森の中は暗くなるとともに、
木の密度が高くなって育ちが悪くなります。
そのために必要なのが「間伐」
間を抜いて、残った木がのびのびと生長できるようにしてやります。

それから、枝打ち。
枝打ちとは、日のよくあたる上のほうの枝を残して、下のほうの枝を切り落とすこと。
管理された植林地では当たり前に行っています。
それによって、節が少なく、通直な材料を取りやすくするとともに、
太陽光を森の中にまで届きやすくするという効果はあるわけです。

太陽の光が森に届けば、下草が生えてきます。
そこは昆虫たちの憩いの場でもあります。そして木の根元まで光が届けば、
広葉樹も生えてきます。おいしい木の実もたくさんあって、動物も大喜び。

単一樹種の植林には、生態系を壊すという批判もありますが、
人間が責任をもって森を管理していけば生態系を保つことは十分できるのです。

戦後、日本全国に植林された針葉樹は、日本の建築需要を満たすはずでした。
が、しかし、悲しいかな、そうはいきませんでした。

戦後、まだ植林された杉などが十分育つ前に高度成長を迎え、
東南アジアのジャングルから、ラワンなどの南洋材が無制限に切り倒され、
製材され、あるいはベニヤとなって日本の高度成長を支えたわけです。

その間、日本の建築は大きく変貌し、日本全国を覆いつくすように植林された杉は
無用の長物に成り下がってしまいました。
「どうするの、こんなに植えちゃって?僕はしらないよ」
無責任な上司であればこんなコメントを残すのでしょう。

かくして、日本再生の切り札となるはずだった森は、日本のお荷物に。
卵を産まない鶏にえさをやるのはもったいない。
という理屈で、いつしか森を管理する人も少なくなり、その結果どうなるか。

間伐が行われないから、木の共倒れが始まったり、
森の中に陽がささないから草も満足に生えなくなる。
地表を守るものがなくなると、ちょっとした雨で表土が流されやすくなる。
表面の肥えた土がなくなると、当然植物が育ちにくくなる。
木の実もなくなり、昆虫もいなくなり、鳥たちも去っていき・・・・。
貧しい森の出現です。
猿や熊が山を降りてくるのも道理です。

豊かさとは、調和の上にこそ成り立つものなんですね。

多様性は、自分勝手から生まれてくるもののようですが、違います。
多様性は、自分以外の他を認めることから生まれてくるのです。

物差しをできるだけたくさん持って、いろんな角度から見てみる。
ことばの違い、肌の色の違い、宗教の違い、経済力の違い、ルックスの良し悪し・・・・。 そんなことで人間の価値は決まりません。

多様性は、大いなる調和と思いやりの中に生まれる、と思うのですが
どうでしょう?

多様性とは、「それぞれが個性という武器を最大限に発揮して
豊かな環境を作り上げる様子。またはその性質」と定義したい。

それこそ森の発想です。

てなわけで、ウッドザビエル的文明論もとりあえず、
これで締めくくりにしたいと思います。

またまた、堅い話に付き合っていただいて感謝。

ほんと、日本の林業は危機的状態らしいです。
みんなでがんばって日本の木を使いましょう。


追伸
もちろん、私の考えも多様性のひとつということでお許し願えれば幸いです。
それでは、さらば。